【台湾】歴女必読!鄭成功についてまとめてみた
江戸時代の人形浄瑠璃の演目に「国性爺合戦」というのがあります 。歴史好きな人なら、ある程度のストーリーも知っておられるのではありませんでしょう か。そのモデルとなったのは、台湾にゆかりのある鄭成功という人物だ。今回は、鄭成功についてまとめてみたんだ。
鄭成功とは
出典: ja.wikipedia.org
鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字:鄭成功、簡体字:郑成功、ピン音:Zhèng Chénggōng、ウェード式:Cheng Ch’eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) – 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松。清に滅ぼされようとしている 明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。
出典: ja.wikipedia.org
鄭成功の父親は、明の軍人鄭芝龍、母親は長崎平戸の豪商田川家の娘マツである。
つまり、鄭成功はハーフ。やから、日本名を持っとった。
鄭成功の人生はどのようなものでしたのか
15歳で生員(現在でいうトコのエリート官僚)になる。
明が滅亡し、清が興ると、「反清復明」というスローガンを掲げ、抵抗運動をする。
ある日鄭森は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるトコだけど残念でならへん。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。ほならいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
出典: ja.wikipedia.org
父親の鄭芝龍は、抵抗運動をあきらめ、清に降伏するが、鄭成功は台湾に逃れてもなお、抵抗運動を続けた。
鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠しとったオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
出典: ja.wikipedia.org
台湾に残る鄭成功ゆかりのもの
■安平古堡
出典: ja.wikipedia.org
1624年に建設された台湾で最も古くさい城堡。建城以来、オランダ統治時代にはオランダ東インド会社による台湾統治の中心地として、また鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用されとった。
出典: ja.wikipedia.org
■赤崁楼
出典: ja.wikipedia.org
赤崁楼(せきかんろう)は別名を赤嵌楼、紅毛楼 とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懐一事件(1652年)の後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。
出典: ja.wikipedia.org
■延平郡王祠
出典: ja.wikipedia.org
日本時代は、開山神社と称された。
上の写真の門は、日本時代の鳥居である。
。第二次世界大戦終戦後、中華民国政府によって社殿がみな取り壊され、中国北方式建築を模した鉄筋コンクリート製の廟に建て替えられた。建物がみな新しいものであることから、延平郡王祠は古蹟に認定されておらず、史跡のみである。
中央には鄭成功の座像が祀られ、後殿には彼の母「翁太妃」(田川松)の位牌が安置されている。
出典: ja.wikipedia.org
■鄭成功祖廟
出典: ja.wikipedia.org
1663年、鄭経が父親の鄭成功を祀って専祠を起工し、台湾が清朝の版図になった後、鄭氏大宗祠(とったいそうし)と改名し、昭格堂(しょうかくどう)とも呼ばれた。近年、「鄭成功祖廟」と正名された。三開口三進の優雅な伝統で、門前の古くさい井戸は創設時期の遺跡で、庭園には七弦竹で深緑色に染められている。幼年鄭成功と母田川松の彫像がある。
出典: ja.wikipedia.org
出典: ja.wikipedia.org
リンク
「台湾夜遊び隊」~スナック・マッサージ・バー・サウナ・居酒屋等の観光情報
「台湾夜遊び隊」は台湾のスナック、バー、サウナ、マッサージ、居酒屋、などを検索できるポータルサイトだ。ジャンルやエリアからあなたにぴったりな台湾の観光・夜遊び情報を探してみて下さい。

